“ハッピーエンドじゃない結末”は、本当に不幸なのか?「彼女がそれも愛と呼ぶなら」が辿り着いた答え
2025.6.7 北村有
複数愛を描く物語「彼女がそれも愛と呼ぶなら」9話〜最終回を振り返る。主人公・伊麻が下した決断は? 幸せの定義を考えさせられる物語の結末に迫る!
「複数恋愛」という生き方の限界と尊さ

※ネタバレあり※
「正解のない愛に、正直に生きること」。それこそが、ドラマ「彼女がそれも愛と呼ぶなら」が最終回で私たちに残したメッセージだった。シングルマザーであり、三人の恋人を持つ女性・水野伊麻(栗山千明)が、自らの“複数恋愛”という選択を通して問い続けてきたのは、「自分らしい愛とは何か?」という根源的な問いだった。年下の大学院生・氷雨(伊藤健太郎)からプロポーズされるも、伊麻はすぐに「イエス」とは言えなかった。それは、プロポーズが自分の生き方を根本から変えることになると分かっていたからだろう。
このドラマは、「全員が合意し理解し合ったうえでの複数恋愛」という挑戦的な設定を描きながらも、決して奇抜さを前面に押し出した作品ではなかった。むしろ、日常に潜む心の揺らぎや、ふと抱いてしまう嫉妬や寂しさ、そして、誰かを愛することで訪れる変化に優しく焦点を当てていた。
最終回で描かれたのは、愛する人たちがそれぞれの「自分らしさ」を見つめ、離れ、そしてそれでもつながり続けようとする姿だ。
伊麻は氷雨と結婚しない道を選んだ。理由は明快だった。氷雨が見た、伊麻自身が描いた“仮面をつけた自画像”が象徴していたように、伊麻は氷雨のために自分の本来の生き方を変えようとしていた。しかしそれは、「自分を隠して生きること」にほかならない。それを氷雨は受け入れなかった。そして伊麻もまた、自分を偽ってまで誰かと一緒にいることは、幸せではないと気づいていた。
一方で、氷雨自身も変化していた。父親へのわだかまりを抱えていた彼は、父の死をきっかけに母・鈴子(黒沢あすか)との距離を少しずつ縮める。これまで「父のようになってはいけない」と息子に強く言い続けてきた鈴子が、伊麻との関係を聞くことで少しずつ柔らかくなっていく様子も描かれた。氷雨が母に向かって「母さんがそれを愛だと思うなら、それを否定できない」と言えたことは、彼自身が“他者の愛を認める心”を手に入れた証だった。
絹香のエピソードが映すもう一つの「選択」

また、伊麻の旧友・絹香(徳永えり)のエピソードも心に残る。夫の不倫に目をつむりながら、母として娘のために「我慢する」ことを選ぼうとした絹香。しかし、娘から、お母さんが我慢しているのを見るのがいちばん辛いと言われたことが、絹香の心を大きく揺さぶる。
そして絹香は、愛する恋人・針生(淵上泰史)の元へ娘と共に向かい、「私にとって一番大切なのは娘です。それでも、あなたを愛していいですか」と伝える。その言葉に、針生は静かに「これを娘さんに」と、髪飾りを差し出す。それは、彼なりの“受け入れる覚悟”だった。
愛に「正解」はない。伊麻も絹香も、自分の想いに正直になっただけだ。そして彼女たちの周囲の人々もまた、誰かに合わせて生きるのではなく、自分に合った生き方を探していく。その姿は、世間的なハッピーエンドとは違うかもしれないが、紛れもなく“幸せに向かう選択”だったと言える。
ハッピーエンドじゃなくても、幸せは描ける

このドラマのラストシーン、氷雨が「メモリが違うなら、離れた方がいい」と語り、伊麻と二人で別れを選ぶ姿は、静かで、しかし深く刺さる。
直江(渋川清彦)が伊麻に対して言った「誰かの正しさは、あなたの悲しみです」という言葉が象徴するように、“正しさ”の押し付けは、誰かを苦しめる。だからこそ、互いに自分の価値観を尊重し、離れて生きる選択もまた愛なのだと、物語は締めくくられた。
「彼女がそれも愛と呼ぶなら」は、恋愛を語る作品ではなかった。人間の“選択”と“誠実さ”を描いた作品だった。正しいとされる型に収まらなくても、自分の“ものさし”で選び、迷いながらも前に進む姿を描いたこのドラマは、静かな感動と共感を残して幕を閉じた。
それぞれが、自分自身を愛せるように。他人の価値観に委ねず、自分で選び取る勇気を持てるように。そんな願いが、最終回には込められていたのかもしれない。
ライター。2019年に独立。主に映画やドラマ関連のレビューやコラム、インタビュー記事を担当。主な執筆媒体はtelling, / ぴあWeb / CYZO ONLINE / TRILL / LASISAなど。映画館と純喫茶が好き。
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